内科学会

この週末,京都で行われた内科学会に参加してきました.

 

会場は平安神宮のすぐそばで,大勢の観光客とそれに負けないくらい多くの(たぶん数千人)スーツ姿のお医者さんが入り交じります.

 

京都の桜は盛りをすぎ,葉が目立つようになってきました.

 

 

土曜の午後は,午前中の診察を終えて急いで京都まで車を飛ばします.

 

特別な講演の目当てがあったわけではないのですが,到着してみると,やけにご高齢の先生が壇上で昔話(?)をなさっていました.

 

今日は来なくて良かったかなぁ,なんて思っておりますと,この先生はご高名な聖路加病院の日野原重明先生だったのでした.ぴんと背筋の伸びた(ちょっとお世辞あり),すばらしい百歳です.

おなじセッションに鳥取の徳永進先生の講演もありました.

この先生は地域での終末医療の先頭を走っておられる方,と認識していますが,ひとつも肩ひじ張ったところなく,「違う二つでひとつ」という言葉に強く共感しました.

病名の告知を「しても」「しなくても」,「近代医療であっても」「代替医療であっても」,終末期に点滴を「しても」「しなくても」,最期の時に心臓マッサージを「しても」「しなくても」などなど,私たちがどちらがよいのかふたつにひとつ,と考えてきたことを,「決めつけない」「押し付けない」とそよそよと風のように紹介されました.この気球(?)の一番下には「誠意」がありました.

 

ずいぶん以前,姉が「死の中の笑み」という先生の著書を送ってくれた時からずっと気になっていた先生のお話を聞けてhappyでした.

また,最後に日野原先生が全体の感想を述べられた時,徳永先生の紹介されたヘレン・ケラー(だったかな)の「unlearn(学びほどく)」という言葉(実際は哲学者の鶴見俊介さんがこの言葉を聴いて感じたこととして紹介されました)に感銘を受けた.と言われたのにも,心地よい驚きがありました.

あえてつっこみますと,「百歳でもまだ学ぶことに興味があるのかョ」といったところです.興味を持ち続けておられるからこそのご長命なのですね.

 

 

 

日曜日は一転,救急医療の講習会に参加しました.

 

心臓マッサージや人工呼吸の方法もどんどん新しくなって行きますし,診療所を持ってからはそういう場面には幸い一度も出会っていないので,腕はどんどん落ちて行っているだろうし......もう一度しっかり覚え直したいと常々考えていました.

 

しかし,私は自分ながらに「人に教えを乞う」のが苦手だと自覚しています.

変にプライドが高い訳でもないと思うのですが,どうも恥ずかしさが前に立ってしまいます.

他人が教えてもらっているのを横からのぞいて習得するタイプ(イヤなタイプだなぁ)とでもいうのでしょうか.

 

しばらくの心の葛藤の後,後ろ向きの気持ちを振り払って思いきって参加を申込みました.

 

内容はというとこんな感じです.

いろいろな病気の緊急事態の診療場面を想定して,ダミー人形の診察をしたり,検査の指示をだしたり,そうこうしているうちに人形が「う〜〜」とうなって心臓が止まるのがお決まりで,さあ,心臓マッサージだ,人工呼吸だ,どんな薬をいつ使うのか,などなど慌ただしく決断して行く,という訓練です.

 

終えてみての感想は,参加して良かったです.

 

予想以上にあわあわしましたし,ずいぶん恥ずかしい思いもしました.

特に気管挿管をしようとした時に,老眼で(!くやしい)全然見えずうまくできなかったのは,7年ぶりとはいえとてもとても悔しかったです.

 

それでも,参加してよかったと思います.

医者として生活している以上,いつまでも謙虚に知識と技術のブラッシュアップをしなくてはいけないことは,頭ではわかっているのですが,身体は付いていっていないことを体感することができました.

 

機会をみつけてはがんばってみよう,と(今は)思っています.

 

で,こんな修了証をもらいました.なんだか気恥ずかしいです...